禅の哲学

最初ブログを作ったときは,このブログを単なるメモ帳で使う予定だったのですが,実際書いてみると python とドイツ語学習がメインのブログになりました.こんなブログにいきなり禅の話を書かれると「オヤッ,こいつはトンデモではないか」と思われるかもしれません.しかしすぐ後に説明しますが,筆者自身からすると全く脈絡がなく禅にたどり着いたのではないのです.「こいつはイカレテル」と思われたくないので,タイトルにある「禅の哲学」の話の前に,なぜ禅みたいな思想に筆者が至ったのかを簡単に書きたいと思います.

そのあとに筆者が勉強した「禅の哲学」をペッと書かせていただきます.「ペッ」ってなぜか巷でよく使われていますね,なんででしょう.

そして,この投稿は「禅」というものについて何も知らない読者(つまり過去の自分)を想定しています.「西田幾多郎の大ファンです」とか「熱心な臨済宗徒です」という方には,この投稿が幼稚極まりなく見えるかと思います.もし,それでも「こいつはどんなトンデモなのか」と気になり読んでくださるのであれば,自分の誤解や誤りについて是非指摘していただければと思います.批判上等.

それと,この投稿では禅の詳しい歴史については扱いません.そもそも私はそちらには今のところ興味がわいていないので,調べていないし書けないです.禅の歴史について詳しく知りたい方は Wikipedia が詳しいようなので,そちらを参考にしてください.

禅 – Wikipedia

もうひとつ,筆者は禅の宗派(禅宗っていうんですか?)のことも全く知りません.なので禅宗についても書いていません.こちらも禅の Wikipedia に詳しく書いてあるので,そちらを参考にしていただきたいです.

あくまでも筆者が知りたかったのは禅の精神性,禅の哲学なので,そちらをメインに書いていきたいと思います.前置きが長くなってしまいましたね.

話の本筋とは全く関係ないのですが,「脈略(みゃくりゃく)」ではなく「脈絡(みゃくらく)」なので,注意しましょう.正しい日本語,大切に.相変わらず流れに関係ない文章混じっているかと思うので,適宜スルーして読んでやってください.







なんでいきなり禅?

筆者はつい最近まで,「哲学」といわれると西洋哲学をイメージしがちであった.中学校までは倫理の授業が嫌いで嫌いで仕方なかったが,高校に入ってから何か思うことがあったのかきっかけはよく覚えていないのだが,それから倫理が好きになり哲学も好きになった.倫理の授業を聞いているときになぜか実存主義のところにドはまりして,そこからニーチェの本を読んでみたいと思ったものの,本屋で立ち読みしてみるとチンプンカンプン.それまで哲学なんて勉強したことなかったので,自分の未熟さを受け入れて簡単な哲学の本から読んでいくことにした.ともあれ筆者は最初は哲学のなかでも西洋哲学に興味を持っていた,東洋哲学は倫理の教科書と資料集にある程度で,特に面白いと感じることはなかった(唯一,老子の思想は面白いと感じた).

でも,西洋哲学についての知識がボチボチとついてきて,お偉いさんが言っていることがなんとなーくわかるようになった時に思ったのが,

確かに西洋哲学はいろんな問題の根本的な疑問に対して向き合っていて,時代を経るごとに様々な方向性(解釈)で解決しようと努力してきた.感動する.でも,やはり哲学が扱う問題の性質上,今までで「疑いなく,明確に解決された」と言えるものはないから,「問題解決」という立場からすると,今まで読んできた西洋哲学は八方塞がりじゃないか...

かといって「解決できないんだから,そういうものとして受け入れましょう」ではどうも気持ち悪いので,何かいい打開案はないか,どうしたものかと思ってた時に,調べ物をしていたところなぜか今までよくわかっていなかった禅の思想にたどり着いた.

要は,「筆者が西洋哲学じゃ哲学問題解決できないという,根拠があるともないとも言えない偏見を持っていたから,現実逃避の方法として東洋哲学に逃げた」ってことですね...まぁ,かといって「東洋哲学を使ってもろもろの哲学問題は解決してやる!」というわけではなく,「問題のアプローチ方法として,教養として,東洋哲学を学んでみよう」というモチベーションが正しいかもしれません.

「西洋哲学に対して筆者が持っているモヤモヤに対して,いったい禅はどのような示唆をしてくれたのか」という見方を頭の中に入れておくと,次からの文章は読みやすいものになるかもしれません.「西洋哲学を禅を比較する」とか書くと小難しく偉そうに聞こえるが,筆者はこっち方面は全く専門外なので,説明というよりは妄想になってしまっているかもしれないです...

高校倫理に出てくる禅の思想の断片

禅の由来

いくら歴史を詳しく説明しないとはいえ,由来だけはある程度抑えておくべきでしょう.さもないと,内容がすべて唐突で断片的にになってしまいますよね...

Wikipedia にもあるように,禅は仏教(そのなかでも大乗仏教)の一派のことです.禅の祖(ボス)は日本人にお馴染みのダルマのモデルになっている「菩提達磨」と言われています.しかし,禅の思想の根本になる発想はそのはるか昔に中国において「老荘思想」という形で見られ,特に荘子の思想が禅の根底にあるようです.達磨が5世紀から6世紀の人間(?)とされていますが,荘子は紀元前の人物と「されています」.荘子が実在していた人物であるかは議論があるので,語尾にかっこを付けました.

ということで,禅の哲学の発芽は荘子ということなので,荘子の思想で禅につながる部分を見ていきます.もちろん,高校倫理の範囲で.高校倫理の範囲で主に参考にさせていただいた書籍は次の資料集になります.

詳解倫理資料 – 実教出版

荘子

禅の基となる荘子の思想は「絶対無」という概念や「胡蝶の夢」というエピソードに見られる「万物斉同(ばんぶつせいどう)」という概念です.

絶対無

早い話が「差異なんぞは人間が生み出したもの」ということです.上の資料集の荘子のページから口語にして引用してみます.

道(自然の秩序.西洋哲学でいう真理みたいなモン)はあらゆる差異を生み出さない.言葉にするから差異が生まれる.差別をなくした境地が道.

この絶対無差別,絶対無とも呼べる境地に達したものを「真人(しんじん)」もしくは,「至人(しじん)」といいます.この真人という言葉は禅や臨済宗でも同じ意味で使われております.

胡蝶の夢

口語でざっくり書くと次のようになります.

夢見たんだけどさ,その夢の中で俺は蝶だったんだよね.でもさ,よく考えてみたら「本当は蝶の俺が,長ーい人間の夢を見ている」のか「本当は人間の俺が,短い蝶の夢を見た」のか区別つかなくね??

中二病盛りに中学生の妄想でよくある話.中二ってもう死語なのかな...とても哲学的な問いですね.要するに,特別な存在であると思われる「私」と,その「私」以外のものの区別,「自他の区別」というものは何なのかという問いかけです.

そしてその問いかけに対しての荘子の立場は,ここが禅にも見られる思想なのですが,「自他の区別などない(万物斉同).区別をしている自分というのはすでに心を奪われた状態なのだ.」となります.この心を奪われた状態というのを仏教,禅では「迷い」という言葉を使うようです.

荘子の要点だけをまとめると

  1. 私という人間が何かモノを「区別」している時は,すでに迷いの状態である.
  2. モノの区別,差異をなくすことができた境地こそ,目指すべき境地(絶対無)である.
  3. 絶対無は単にモノの区別をなくした境地でなく,自分とそれ以外の区別すらなくした境地.

となるでしょう.2番目の「目指すべき」という表現で誤解を生むかもしれません.このような「対象としての境地がある」と考えることは荘子の観点からすると迷いになります.絶対無ですよ.禅でもこの絶対無の考えは残ります.荘子自体の詳しい内容は先ほど紹介した資料集が詳しくわかりやすいので,ぜひ参考にしていただきたいと思います.

余談ですが,荘子ってこの絶対無の考えからみられるようニヒリズム的ですし,それで個人的に思い入れがあるのかもしれません.

西田幾多郎

禅の起源(?)である中国の荘子について話したので,次は日本での禅の思想の断片を見ていきます.荘子の思想が日本に来るまで,来てからの変化などはここでは扱いません.上で説明した荘子の内容は禅の思想の核心であり,時代とともに変化しているという様子は(自分が勉強した範囲では)見られませんでした.

高校倫理で日本人の思想家を学ぶ部分で,禅の思想を感じ取ったのは西田幾多郎でした.正確には,禅のことを調べているうちに「あれっ,西田ナントカさんと同じこと言っている気が...」と思い調べてみた結果,ビンゴだったっていうだけです.基本的な部分は荘子の思想を発展させていくと得られる思想になっている印象を受けました.またまた,こちらの内容も上の資料集を大いに参考させていただきました.

主客一致

西田幾多郎の哲学で受験でよく扱われるメインの思想は「主客一致」の思想でしょう.先ほどの荘子の話で「自他の区別がない境地」ということを言っていましたが,これを西洋哲学で使う主体(Subject)と客体(Object)という単語を使えばまさに「主客一致」という考え方になります.西田幾多郎は西洋哲学と東洋哲学,特に禅の哲学を融合させた独自の「西田哲学」を確立されたようです.

筆者の不勉強で誤解を生むようなことを書く恐れがあるので,これ以上西田幾多郎の思想について書くのはやめようかと思います.というか,上の適当な説明でさえも専門家の方からしたらツッコミどころ満載なのではないかと書きながらビクビクしたものです...いずれにしろ,高校倫理の範囲で少しでも禅の哲学が垣間見れるものを挙げるのであれば,どうしても西田幾多郎は欠かせないはずです.もし高校倫理の本が手元にあったり,高校時代に倫理の授業を聞いていてそのノートがある方は,禅について学ぶ前にぜひ西田幾多郎の部分を振り返って見ていただければと思います.

余談:筆者のきっかけは茶道

さて,上までは高校倫理の内容で禅の思想を垣間見れる断片を紹介しましたが,これからは最近の自分が禅の哲学を勉強して得られた基礎的なことを書いていきたいと思います.その前に,自分が禅に至った経緯をちょっとだけ細くさせてください(自分語りで申し訳ないです.でもブログってそういう自由に書いてもいい場所だよね?).

禅の思想に興味が向いたのは,冒頭でも書きましたが西洋哲学に自分が弱いがゆえに行き詰まりを感じていたからでした.自分としては非常に残念なことなのですが,どのようにして「西洋哲学の行き詰まり」から「禅」への興味の移行があったのかのメモを見つけることはできませんでした.しかし間違いないこととして,初めて西洋哲学に対して一つの異なった照らし方があるということを感じさせてくれたのは「茶道」でした.確か,何かのキーワードでいろいろ検索したり調べていたら,たまたまなんかの茶道の本の中身が Google Books でヒットしたのがきっかけでした.別に筆者が今まで茶道を習っていたとか,知り合いに茶道をかじっている人がいたとかではありません.

ということで,茶道の哲学について調べたところ次の文献に会った.

茶道の哲学 (講談社学術文庫)

いや,まぁタイトルまんまですけど...でも,この本は筆者は読みませんでした(汗)タイトルはまさにそれなのですが,Amazonのなか見!検索で目次を見てみたところ,何やらドンピシャで「茶道の哲学はコレコレこういうものですよー」と伝えてくれる本ではなかったようなので,同じ筆者で違う著作を探したところ次の本に出合いました.


久松真一「芸術と茶の哲学」 (京都哲学撰書)

というわけで,こっちを買って読んで見たいと思ったのですが,割と専門書の様で割と値段もすこーし高めなことと,自分の本棚にこの本を飾ると浮いてしまうので,近くの図書館にあることを確認して借りて読むことにいたしました.第三部「茶道」という部分から読み始めたのですが,その最初の内容「茶道における人間形成」の一段落目で「茶道は仏教,特に禅のインカーネーションである,と考えることができるのであります」と書いてあります.ということでこの次から禅についての説明を詳しくなさってくれているので,ここで筆者は初めて禅の考え方に触れることができました.以後,かっこでくくった単語(もしくは句)に(文献引用)と書かれている場合は,こちらの書籍で知ることができた単語(もしくは句)になります.

ちなみにこの「茶道における人間形成」という章は,最初手に取った「茶道の哲学 (講談社学術文庫)」にも同じタイトルで章があるので,もしかしてこちらの部分の内容については同じかもしれません(筆者は確認していないので何とも言えないのですが,著者が同じ上に章のタイトルが同じだったら,おそらく同じ内容であると思います).「茶道の哲学 (講談社学術文庫)」は筆者も後々手を取って読んでみたいと思っておるので,興味のある方はぜひぜひ...

先ほどの荘子の話とこちらの書籍で学んだ禅の知識で,おそらく間違っていないだろう禅に対する筆者の認識,つまり禅の哲学は次のようになります(タイトルからするとこれから先が本題ってことですかね...).

「形」あるものの否定

禅の姿勢として「一切の形の否定」というものが上の文献で紹介されています.今の自分の知っている範囲の禅はまさしくこの一言に尽きる気がします.この「形」というものがまた難しいのですが,具体的に人間が触れることができるものはもちろん形を持っていますね.いわゆる実在とか実物のことです.これらは禅においては否定されます.さらに「形」には,実在ではない「観念」も含まれます.上の文献において著者はプラトンのイデアの例を挙げています.つまり「形」には実在的なものも精神的なものも含まれます.これは私の意見なのですが,おそらく言葉で表されるようなものはすべからく「形」を持っているのではないかと思います.何かを言語レベルに落とすことはその段階で何かしらの「区別」ということをしていますが,これですでに何かの「形」がでてくる,というのは間違いないのではないでしょうか?(って書くと間違ってるように思える不思議.いや間違ってるかも)

おそらく論理的に考えるとチンプンカンプンです.私のような(未熟ながらも)西洋哲学的な考え方に慣れてしまっている凡夫(ぼんぷ.悟っていない人の仏教用語)からすると,「実在」と「観念」の二つを取り上げられたら「もう何もこの世に残らない」と思いがちですが,そもそもたっている土俵が西洋哲学とは異なるので,「論理的に考えて変だから,これはトンデモだ!!」と考えてはいけません(自分への戒め).正しく禅を知りたいのであれば,まずはそれに耳を傾けて今までとは違う何かが見えてくるのではないかという期待をする姿勢を持つべきだと,少なくとも自分は思います.

無相の人間

荘子の思想の部分で「区別を否定する」という考え方がありました.これを背景に持つ禅の考え方に「一切の区別をなくす」,「一切の形あるものの否定(文献引用)」というものがあります.そして自分がこのような「形なき人間(文献引用)」であることの自覚を「無相の人間(文献引用)」といいます.仏教でいういわゆる「解脱」ですね.

「無相の人間」は「一」とか「如」とか「如一」とも言うようです.これは荘子の部分で現れた「真人」とも言われます.そして上の文献において無相の人間は「理想,理念ではなく,事実上実存する」,「考えられるのではなく,実証される,事実の上で成立する」とも書いてあります.もし無相の人間を自覚したのであれば,それは自覚したその人自身なので,そのような状態は事実上実存するといわれても無理はないように思えました.

「一」は自分の外にはもちろんないし,うちにあるわけでもない

吟味してみるとなんとなーくわかったようでわからない.確かに自分の外にあるのは「形」がある.そして自分の中にあるものも観念であるため「形」がある.確かに「一」は自分の外にもうちにもなさそうだ.「自覚したその瞬間」と認識してしまうとまた形が出てきてしまう.言葉で表すのはやはり難しいみたいです.というかで,できないという立場が正しいでしょう.文献にも「言葉以前の問題(文献引用)」とされています.言葉というのは何かの形を表したものである以上,形のない無相の人間を語ることは困難なのでしょう.

ここ当たりの知識を考え始めると,訳の分からないことが禅問答といわれている理由がちょっとわかりました.

「一」は求めて得られるものじゃない

「求める」という言葉を使っている時点で,何かの対象を考えている.それは形を持っていることになるので,求めて得られるものではない,という理解です.そう考えると「悟るものも,悟られるものもない(文献引用)」ということになり,これを「能所がない(文献引用)」という言い方をするようですが,これは荘子の言っている万物斉同の思想からつながります.

感想:考えるな,感じろ!!(?)

最後に筆者の感想(タワゴト)をチラッと.勉強してて伝わってくるメッセージは「考えるな,感じろ」であった.でも「思想」なんだから考えてないと思想って言えるの?思考停止じゃね?よくわかんね.ってなっちゃう.

いやー,注意はしたものの,振り返ってみるととらえ方によっては「この投稿ヤバいんじゃないか」と思われても仕方がない気がしてきたwwネットで宗教系の記事とかを怪しく思ってしまう理由ってよくよく考えると「身近でない,ゆえに経験できない」っていう端的な理由なのかもしれないとも思いました.

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